ネコチャンワールド

千利休が認めない男ビデオ

悪巫山戯

この記事は自部屋さんの「結婚」という記事を自分のお気持ちに合わせてクソみたいな改悪を入れただけの文章です。

 

 「あのイベント」が中止になったことが明らかになった。私は驚いているのだろうか。驚いていない。私は震えているのだろうか。震えていない。私は叫んでいるのだろうか。叫んでいない。私は落ち着きを失っているのだろうか。失っていない。私は怒っているのだろうか。怒っていない。私は涙を流しているのだろうか。流していない。ただ確かなのは、あのイベントが今年開催されないらしいという事、そして私がまだこうして生きているという事、私に表情はないという事、私が何か決定的な終わりを感じているという事、絶望の底が抜けたという事、そして、私は今泣いていないという事だ。私は悲しんでいないのだろうか。いや。悲しんでいるのだろうか。分からない。悲しんでいると思う。ただ悲し過ぎて、自分が悲しんでいるという事が分からなくなっているのかもしれない。あるいはこれは悲しみという感情を超えた何かなのかもしれない。私は今でも巨大な猫の事を常日頃思い出している。しかし、あのでかいねこの姿も出没状況も、あのでかいねことの出来事も経験も経緯も、何もかも体験したことがない。私はそれらを考えずに済ませる事ができない。今、課題を意識する事は危険な事かもしれない。この無気力は私の無意識的な自己防衛なのかもしれない。何か通常の私ならあり得ない力によって、私の感情や意識、思考が一まとめに冷まされてしまっている、見事に抑えられてしまっている、そんな気がする。心がないみたいだ。いや、それは全く正確ではない。人一倍、心がありそうなのに、そして恐らくそれは実際にあるのに、何かで徹底的に縛られて、それは殆ど心として機能しなくなっているのだ。これは幸いな事かもしれない。恐らく本来なら私は壊れてしまっているだろう。狂ってしまっているだろう。狂ってしまうに違いない。比喩ではなく、誇張ではなく、修辞ではなく、恐らく私は本当に狂うだろう。そして私は「行動」してしまうだろう。明日にでも私はあそこに行ってしまうだろう。それで足りなければ三日でも四日でも一週間でも、どれだけでもかけて、「行動」だけをしてしまうだろう。それはよくない事だ。幸い私はそれをせずにいられるようである。代わりに私は恐らく今どんな言葉を書くのにも適してはいないだろう。言葉は心のある人間にこそ相応しいものだ。今ほんの少し水分を感じた。私はここにいるぞと、言っているらしい。お前はこれだぞと、言われているらしい。しかし、こういう感情に身を任せるのは社会のためにならない。でかいねこのためにならない。それで私は今何を言えば良いのだろう?これからどうすれば良いのだろう?一体何が残されているだろう?私の選択肢は???どこへ行くのが正解だ?どう反応するのが正解だ?明日をどう過ごしたら良い?これからどうしていけば良い?心をどこにやれば良い?ばかげた事だ。最初から可能性として考慮していた事だ。「こうなる事」は、最初から想定の範囲内だったはずなのだ。あるいは「こうなっている事」すら。だがいずれにしても確かなのは、私の人生はここで、今日、決定的に終わったのだという事だ。そして道は今完全に一本になったという事である。別の可能性などというものは今や完全になくなったのだ。結末はただ一つしかあり得ない事になったのだ。もっとその幸い冷静に留められた紛い物のような心で、「ポジティブに」考えてみれば良い。一体何が変わったというのだ?「実質的に」何が変わったというのだ?何も変わってはいないじゃないか。「全てが同じ」じゃないか。全てが同じじゃないか!全て知っていた通りじゃないか!全てが想像の通りじゃないか!私がやる事にどんな変化がある?私が行く道にどんな変化がある?何も変わらないじゃないか。元々考えていた事じゃないか。私は元々こうなるはずだった!このつもりだった!それとも覚悟していなかったとでも言うのだろうか。9カ月もの月日を無駄にしながら!!でかいねこは私を迎えてはくれなかった。あの地方公共団体は大規模なイベントを開催する状況にはなかったのだから。でかいねこには私を迎えない理由ばかりがあった。そんな事は当然過ぎるほどに当然の事ではないか。そもそも一体「待つ」とは何の事なのだ?一体何を待つというのだ?私にでかいねこを待たせるに値する何があったというのだ?「こうなったのは」「当たり前」の事だ。それ以外に言いようはない。それ以外に言いようはない。それ以外に言いようはないのだ。私はもう終わりだ。悲しみしかない。