ネコチャンワールド

千利休が認めない男ビデオ

狂喜する自暴自棄人間

გამარჯობა

 

 

俺をでかいねこに会わせろ❗

そして自暴自棄人間の王国を作り、田所としてわし(53歳)は君臨するだろう。そして、国王は巨大な猫、家来は全人類だ。

 

閑話休題

数日前に2m(79インチ❔)のレナモンのぬいぐるみがヤフオクで出品されているのを確認した。そして今日の夜値段を確認してみると10万円を超えており、海外にオーダーメイドした方が割安という圧倒的大爆笑案件になっていたから楽しかった。私は最近常日頃でかいぬいぐるみを渇望する傾向になってしまい、戻らなくなった。故に今回のオークションで安く買えればでかいぬいぐるみによって圧倒的な進捗を生むことができると安易に考えていた。しかし現実は数時間前に海外に注文する方が送料込みで安くなるという面白い結果だったため思わず大爆笑してしまった。

 

扨、前の記事でも言及していたかもしれないが、私は椎茸帽子のでかいねこを常に追い求めるような精神状態から更に落とされ、今では何も頼れるものがなく唯堕落していくだけの自暴自棄人間の様相を呈している。何もかものタスクに着手するための体力すら残されていないような気さえしてくる。

 

ここからはかなり深刻な状況を記述しているため面白い文章目当てでブログを読んでいる人々には推奨できない(そんな人いるのか❔) そのためとりあえずここで続きを読むを入れてお茶を濁すことにする.物事を簡潔に説明するのが絶望的に苦手な人間であるため、ここに巨大な猫に執着するまでの経緯を記し、記録としておこう。

 

人生の終焉への道筋は後悔のみで舗装されている

また、前回ご紹介したように(前回なんてありません)でかいねこへの執着は或る一つの出来事が切っ掛けとなっている可能性がある。素晴らしい写真を掲載していらっしゃる素晴らしい方からブロックされたことだ。これに関しては私のSNS上の振る舞いの傾向やその方の好き嫌いの傾向の不一致によるものが多く、私が100%悪いことは自明である。そのため、半年以上経過した今でもその方ともう少しコミュニケーションをとるべきだったとかなり後悔している。若しキャラクターへの愛を返信で伝えることで少し距離を縮めることができさえしたのならば、私は世界に希望を見出しながら学業やその他の事柄に対してより真摯に向き合えたのだろう。そう考えを巡らせたとしても、起きてしまったことは起きてしまったことだ。過去を変えることはできない。現在を唯只管生き長らえていくしかないのである。この事実を堂々巡りする日々から脱却することは困難を極めているのは実際に現在でも抜け出せないことからも容易に分かるだろう。その後悔を引きずっていた2月上旬頃、畳み込みニューラルネットワークによって画像の解像度を上げる処理をするアプリが巷間で話題になった。昔インターネットで保存した画像のノイズを取り除くことは私にとって待望の操作であったから、私は即座にそのアプリをインストールし、過去好きになったキャラクターの画像を探すことにした。そのとき、カメラロールに何となく残していた椎茸帽子のでかいねこの低画質画像が見つかった。私はその時「そういえばこのキャラクターは8年くらい前から活動中止していたけど、どうなったんだろうか❔着ぐるみも廃棄処分されて忘却されたのだろう」と高をくくりながらキャラクター名で検索をかけてみると、2016年から2019年にかけて毎年11月の第二日曜日に出没しているという話を見つけてしまう。これが悲劇の始まりであった。このキャラクターの着ぐるみは所謂エアータイプで、表面はボアを用いない安価なセシーナ生地と思われる。当時某社は大量の着ぐるみを一気に発注していたらしく、安価に抑えたものという推察と辻褄が合いそうだ。イベントの開催日に絞って「なんかいた」等のワードで画像検索をかけまくる日々が暫く続いた。その結果ある程度新規の画像を発掘できたが、その量は費やした時間とは裏腹にかなりの少量であった。しかし過去のアーカイブに残された画像と比べると解像度は優れており、私は高画質の画像が手に入ったことに満足した。あれ❔高画質アプリ関係なくない❔と思ったかもしれませんが低画質画像に関しては個人的に好きなものを高画質化しました✨

 

精神の異常が顕在化し始める

2月中旬は画像漁り以外にも伊藤計劃の本を読むことで辛うじて何らかの進捗を得ていた。読みたい本が尽きてきた2月下旬になってくると検索結果もあまりよくなく、調査を取り消すことを検討していたが、溢れ出る画像発掘への欲求が止まることはなく取り消すことは結果的にできなかった。3月になると別のキャラクターに対する画像欲が高まり、今まで興味を持ったキャラクターの着ぐるみ出没報告を手当たり次第に捜索する狂人に成り果てていた。このころからすでに精神は平常を保つことができなくなっており、来期のjava演習に備えて基礎的な知識をつけようと意識するも画像漁り以外のことができなかったり、外出した場合にもでかいネコのことしか考えられないという思考の異常さも発現してきた。

 

ドラヴィダ語族との出会い

3月下旬、何気なくマレーシアのストリートビューを眺めていると病院と思しき場所にタミル文字とは別にカンナダ文字と類似した文字が書かれているのを発見する。調査したところテルグ文字であったため、個人的に気になって YouTube で動画を検索するとチャンネル登録者数が250万人くらいいるそこそこ人気のニュースチャンネルを発見する。このチャンネルの動画には英語(自動生成)が頻繁に付与されており、それが恰もテルグ語を英語で聞き取った場合の空耳のようでとても興味をそそられた。この現象はまだ私がまともだった頃に見つけたクメール語ニュースチャンネルでも散見されたが、クメール語の動画ではあまりにも静止画だらけだった一方でテルグ語のニュースはちゃんとしたテレビニュースの形式をとっていたため字幕をキャプチャしてもテレビのように見える点で個人的には嬉しかった。4月上旬には実力テストが待ち受けていたが、冠状の病毒対策の観点から中止になり、猫の画像を探しても見つからなくてどん底だった私にはとても助かる報せだった。この頃は少しだけクロスモールのマスコットの着ぐるみ画像を探すことにも挑戦していた。しかし現在では当該店舗が改装していることや、現在その名称を引き継いでいる店舗に行ってもマスコット関連の情報が全く出てこなかったことから闇に葬られたとして済ますことができた。(なんで?)

 

オンライン授業、襲来

4月下旬から漸く始まった講義の日々。課題は山積していく一方で睡眠時間もかなり減ったと思われる。等身大ぬいぐるみで擦り減った精神を少しだけ癒しながら進める課題はつらかったが、結局進捗は生まれていたので後で振り返るとそれもありだったように思える。実験レポートも図書館から参考文献を漁って途中からは進めるようにしていたが考察はあまり深くできなかった。明け方まで課題に追われることがあるほど休日に何もできないクソ男になってしまったっぽい。

 

未実装言語の字幕との出会い

オンライン講義期間中にあまり集中できなかった理由の一つとして自動生成字幕に追加された新たな言語がある。最初は文字起こしのみしか開けなかったが途中からは文字起こしも開けなくなり無意味だと思っていたところ、埋め込みの動画から発掘することができると突き当てた。これにより文章があまりにも長いタイ語の字幕や、おかしな表現が多々存在するヒンディー語の自動字幕、謎のURLの出てくるインドネシア語自動字幕などの未知のエリアに踏み出すことを成し遂げた。ベトナム語トルコ語の自動字幕の翻訳もかなり面白い結果を生み出していたため、講義期間中はずっと今後の発展に期待していた。

 

平穏、訪れるか?

講義が終わり、夏休みが到来する。これはもう3回目となる。実験の成績があまり努力と比例しなかったことから求められるレベルの高さを自覚せざるを得なくなり、自分が如何に考察の苦手な人間なのかということを骨の髄まで叩き込まれた。ポケモンソードを進めることで若干の進捗と称していた。9月になるとガイジ旅行を数回することでメンタルの回復を図ろうとしたが、回復は一時的なものであり、すぐに巨大な猫への思いがよぎってきた。

 

字幕の消失

旅行で一時的に持ち直した精神を破壊したのは YouTube 側の字幕に関する仕様変更だった。有志による字幕の提供は悪意のあるものが散見されたのか、動画投稿者以外が手動の字幕をつけられなくなったのであった。この仕様変更により YouTube で合法的に可能だった未実装言語の字幕発掘が不可能となり私は諦めざるを得ない状況に追い込まれた。それでも一縷の望みが巨大な猫にあった。これは本当に過去の記事に書いたことだが、着ぐるみが出没する市の過去の市報には出没するイベントの詳細が必ず書かれてあるため、11月の市報にイベントの詳細が書かれるまで待機してそれから航空券、ホテル等の準備を補助金の圧倒的な金でカバーしてでかいネコに会いに行く、この意志が私を10月下旬まで支えてくれた。この頃からブギス語の曲に興味を持ち始め、精神維持のためある程度リピートする状態になっており、旅程を決めるときも脳内でループして気持ちを昂らせていた。

最後の希望が潰えた

10月に入ると市報が更新されないかが気がかりになり、中旬以降は毎日市のホームページを開くといった執念深さになっていた。辛うじて前期より必要な講義は少なかったため課題も少なく、でかいネコにさえ会えれば今期はうまくやっていけるだろうとこの頃は思っていた。

しかし感染の勢いが収まらなかったからか、10月21日に掲載された市報には該当イベントの記載が存在しなかった。私は深く絶望した。何が何でも掴みたかったでかいねこへの手がかり、知名度が低いままでこのキャラクターを終わらせたくない、絶対このキャラクターを人々に布教してやる、崩れそうなメンタルを支えてくれてありがとう―無数の巨大な感情を抱いて最後の希望に賭けていたのだったから何も記載がなかったときには言葉も出なかった。本当に言葉にしたいことが溢れてきたときにこそ何も言えないというのは去年の5月に某五輪マスコットに遭遇したときに覚えたが、負の感情に対しても同じことが当てはまるのを実感し打ちひしがれてしまった。中止が決まって以降に始まった実験も自分で考えてプログラムを組む部分で人よりも遅れをとってしまい、猫への執着でかなり思考能力が落ちて唯の狂人に成り果てた自分のことを認識する。中止になってからもブギス語の曲を探すことは止まらず、まるで代償を求めるかのように精神安定として曲を利用するようになってきた。その他にもブギス語の文法や語彙に関しての興味が湧いてきた。一方で自分が今まで着手してきた言語の語彙に関しては全く興味が湧かず、英語の試験を入れたのに何故モチベーションが湧かないのかと自己嫌悪に陥るのが日課になっている。

でかいネコに会えない、ただこの一つの事実が心の中から離れず、永久に癒えることのない深い傷跡として死ぬまで残り続ける。他の感覚が衰えてしまったとしても会えないことを超えるような苦痛は現れないと強く思う。人々が耐えられる些細なストレスもこの苦痛によって演算増幅器の挙動のように増幅され、私にとっては耐えきれないストレスとして見做されてしまう。それゆえに人々よりも少ない進捗しか生めず更に自分が嫌になってくる。ただ遭遇して写真を沢山撮り、人にその猫の存在を知らせることができさえすれば娑婆に戻れると思うのに。これは中の人の存在を鑑みない素直な怪文書であるから、何れ話す機会があれば自分の愚かさを謝罪しに行きたいレベルである。(何❔)

写真家に拒絶された悲しみが巨大な猫に会ってみせるという執念に変化し、その執念が果たされるまでの間その悲しみを未知の言語に触れることで癒そうとしていたのではないかと考えると身が震えてしまう。結局今年出会うことは無理になってしまったのだから、もう悲しさを代替する手段が見当たらない。これが原因で曲や執念をループするだけで何も生まない生産性皆無の自暴自棄人間になってしまったのである。なんと滑稽だろうか。悲しみをすぐに解消できさえしていれば一般人と同様に進捗を生めたかもしれないのに勿体ない。お前は大馬鹿者だ。

消えることが選択肢に入ってくるくらい限界は近いが、巨大なぬいぐるみで一時的に癒すことで延命処置することも検討している。

さて、私の明日は生きるか死ぬか。どっちだ❔